月別: 2020年5月

「ない」を理解できることってストレングス!

こんにちは、森のすず社会福祉士事務所です。

5月もそろそろ終わり。早いですね。
今年の前半は、コロナ騒ぎで閉じこもっている間に過ぎていきました。
とはいえ、いきなり開放的になる気持ちを押さえつつ、冷静に行かねばなりません!

山椒の実が出回る季節。山椒好きにはたまらない!

さて。うだうだと独り言です。

「ない」という言葉や、否定の言葉について、ちょっと考えてみたいと思います。

コップに入っている水の量を見て、「まだある」とおもうか、「もうない」と思うか。
「ない」ということを、理解できる能力。
「いないいない、ばぁ」という遊び。
「みえないけれど、あるんだよ」という有名な詩の一説。
人がこの世からいなくなるということの理解。
「ゼロ」という概念。
ないものをねだる気持ち。
お金がなくなることへの恐怖や、逆に、無頓着なこと。
自分には「それが、ない」ということを理解できること。
「ない」ということを証明するのは、むずかしいこと。

・・・などなど

「ない」ということを考え続けると、なんとも不思議な気持ちになります。

「ある」に対比させられる「ない」は、その意味を頭で理解することは比較的簡単です。
『いないいない、ばぁ』は、「なかったのにある、あったのにない、でも、ある!」という状況を、遊びを通じて体験し、「みえないけれど、あるんだよ」を経験的に習得していきます。
そうすることで、「常に見えてないと、心配なの!!見えないものは、ないものなの!」という状況ではなく、モノの(ある程度の)恒常性を理解し、安定した関係性を作る基になりますね。
「みえないけれど、ある」というのは、結局は「ある」なので、肯定的な感覚だとも思います。

「ゼロ」という数字は、数字の発明の中で一番最後にできたものだと、子どもの頃に図書室かどこかで見た本に書いてありました。
「ある」というものは見て数えられるので、「リンゴがある、これは1個。」「みかんがある、これは2個。」そんな風に数え、記号として数字を発明して表し、利用できます。
でも「ゼロ」というのは見えないので、そう簡単には気づかれなかったのでしょう。
「ない」ということを『発見』することは、すごいことだと思います。
「みえないものが、あるんだよ」という感じでしょうか。

私たちは、生活する中で、さまざまな状況で暮らしています。
経済状況、能力の状況、その他いろいろ・・・。
自分にあるけど、人にはないもの。ほかの人にはあるけど、私にはないもの。私だけにないもの。私だけにあるもの。
いろんな「ある」「ない」の中で、お金や物ではなく、目に見えない感覚的なものの「ある」「なし」の理解は難しいものです。

私は、数学が苦手です。
とくに、微分積分・・・なんのこっちゃ??です。
数学的な考え方をする能力は、どうやら私にはなさそうです。

(余談ですが、高校1年生のときの、入学後初めての4月おわりの数学の実力テストで、それまでの人生のなかで初めて見る点数をとりました。びっくり・・・。中学3年生までは、数学もそれなりにできていたのに、先月まではできていた数学が、今月はナニコレ??。先生は言いました。『今回の実力テストは、数学のセンスを見るテストです』と。その言葉が正しかったのかどうかはわかりませんが、私には数学の才能は備わっていないと納得しました。本当にないのか、あるのかはわかりませんが、少なくとも、その後、数学は嫌いではないけれど、理解はできないので、才能はまだ開花するようすはなく、おそらく、ないのでしょう・・・。数学だけが学問ではないので、大丈夫ですけれども。)

「メタ認知」という概念があります。

「メタ」というのは、

メタ(meta-)とは、「高次な-」「超-」「-間の」「-を含んだ」「ーを入れた」「-の後ろの」等の意味の接頭語。ギリシア語から。(Wikipedhiaより)

で、メタ認知というのは、認知のさらに高次な認知。認知の認知ということです。
認知というのは、知っていること・理解していることというような意味ですから、メタ認知というと、「理解していることを理解している。」とか「理解していないことを理解している。「わかっているかが、わかる。わかってないかが、わかる。」ということになります。

で、ここで、「ない」というのを理解するというのは、なかなか難しいもののように思うのです。

私は数学の才能はない・・・数学はわかっていないとわかっているわけですが。
それは、テストの点数が悪い、点数が取れない、正解が得られないという経験の積み重ねで理解しました。

ちなみに、化学もあまり好きではないのですが、ある日のテストで回答欄は全て埋めた(記述式も埋めた)ものの、結果は100点中6点う散々なものでした。返却された結果には、化学の先生からの手紙がついていて「自分の世界に入り込んでいるようです」と書いてありました。まぁつまり、この世の理論には何一つ当てはまっていないけれど、私なりの理論を展開して全部答えるという状況への、何とも言えない助言なわけですが。
この場面において、私はテストを受けている間は、6点分しか正解できない状況だとは思いませんでした。
だって、スラスラと回答できたんだもの。
わからないことすら、わからなかった。

一方、数学のテストでは「わからん・・・計算式の立て方もわからん・・・」と、かなり白紙で出したとおもいます。
わからないことが、わかった。それはだけは、わかったわけです。

幸い、化学に関しては、点数が悪いのと、先生が手紙をくれてある意味詩的な表現で私がズレてるのを指摘してくれたおかげで、その後、考え方の補正はでき、良くはないものの致命的な点数をとることはなくなったわけですが。

これが、学校の勉強での知的部分であり、テストという表現する場面があり、教師という上からモノを言える指導の立場の人がいたからこをなんとかなったわけですが。

社会の中で起こるさまざまな事態で、この、「ない」を実感することって、時にはものすごく難しいのではないかと思うのです。
「できていない」ということを、実感することって、難しいです。
「できない」ということを、自分で見出して、理解するって難しいです。

結局は、何かに失敗したときや、うまくいかなかったときに、「これは、自分はできないんだな」とおもうことが多いでしょう。
もちろん、それ以前に「興味がないから、むいてない」と思う場面もありますが。
勉強してみたけれど、結果が出ずに諦めたり、何度もチャレンジしてみたけど、できなかったり。
自分に「ない」を認めること、その「ない」がどうしても欲しいのに、「ない」を受け入れることは辛いことです。

とはいえ、その「ない」を理解できることも、実は場合によるとそれを手に入れる第一歩だとも言えます。
その「ない」を間接的にでも補う手段が見つかれば、なんとかなるかもしれません。
代替手段、なにか違うアプローチで、手にすることもできるかもしれません。
いずれにしても、「ない」を知ることはとても大切です。

しかし、この「ない」を理解することはとても難しいものです。

メタ認知は、認知の認知。
ベースとなる認知がしっかり育ってこその、メタ認知。
そこでは、ないものはないとして、あるものはあるとして、自分の行動のありのままを、自分の1段上から、自分を含めた周囲とのかかわりや自分の置かれた状況や、自分自身が感じている状況を把握します。
自分の認知がゆがんでいることですら認知できる、メタ認知。
「ない」を認めて、自分自身を支援しつづけ、うまく活かすメタ認知。

私は、世の中の『ない』について考えると、結局は、自分自身の意識について目が向きます。
一体この世の「ある」「なし」とは、どういうことなのだろうか?
貧富の差、幸福追求感覚の差、理解の差、その他いろいろの、ある・なし。

「できる」「できない」を自分できちんと把握するのは、難しく、でももしそれができるのなら、それはとても強いストレングスになるだろうなぁと思うわけです。

 

さて、もうすぐ6月。
今年の前半は、「ない」みたいな日々が過ぎていきました。
今までの経験では説明できない、何とも言えない数か月。
まだまだ油断はできませんが、これからの残り半年少しの令和2年は、安心がたくさんありますように。