森の奥底

怒りの表現の本当のところ

新年早々、別に怒っているわけではないのですが、家族団らんの話題が多いこの時期に、ときどき思い出す子どもの頃の思い出があります。

 

私は「おなかがいたい」というのを、大人になるまで言えませんでした。中学生や高校生の頃、友達が人前で「おなかがいたい」というのを見て、ちょっとした衝撃をうけたものです。なぜそう思うようになったのかを考えたところ、一つの結論に達しました。私には姉妹が居るのですが、同じ意見で一致したので、おそらくそう外れてはいないのではないかと思います。

幼少期、「おなかがいたい」と母に言うと、母は怖い顔になり『どうして!?』と問い詰める口調になりました。それが、幼い私にとっては叱られているとしか思えず、おなかが痛くてもちょっとやそっとでは言わないようになりました。叱られたくないので。

ある日、ウインナーか何かについていた薄いナイロンかビニールの包みを、もしかしたら飲み込んでしまったかな?と思うことがありました。おそらく、小学生の低学年ぐらいのことだったと思います。母に「このウインナーの包みの切れ端を、飲み込んだらどうなるの?」と尋ねると、母の答えは(今思うと、基本的にそうではないとわかるのですが)『腸がちぎれて死ぬ』でした。衝撃的な言葉に続いて、『まさか、飲み込んだの?』と怖い顔で聞かれました。とっさに、「いや、きいてみただけ」と答えて、その場は逃れました。しばらくの間、一人で『死ぬのかもしれない』という恐怖心がありましたが、その後、祖母に同じ質問をすると『小さいのやったら、うんちのなかで出てくるわ 笑』だったので一安心しました。おなかも痛くならず、何事もなく過ぎていきました。

大きくなってそれらの話を姉妹間でしたときに、彼女は叱られるのが嫌で、幼稚園児のころから腹痛が起こると自分で棚をあけ正露丸を飲んでいたというのです。私は薬を飲むのが嫌いだったので一人で薬を飲むことはしませんでしたが、5,6歳の子が自分一人で腹痛をなおすために薬を飲むというのは、今思うと心が痛むことです。一方私は薬は飲まず、トイレに籠り、足元の小石が敷き詰められたタイルを見ながら、人生が山あり谷あり、痛みも山がありそれが過ぎると治まることを一生懸命考えていました。

子どもの頃、叱られる原因が腹痛で、腹痛は私にあり、つまり叱られる原因が私にあると考えたことから、腹痛は叱られるものであるという感覚が染みついた結果、人前で「おなかがいたい」は言えなくなりました。幸いにも、大事に至るような腹痛は経験せずに過ごせたので良かったのですが、もし単なる消化不良などではない大きな病気が腹痛を起こしていた場合、どうなったのかと考える怖いものです。

さて、そんなふうに「怒り」を私に向けてきた人の感情の背景を考えると、少なくとも、当時の私の母の場合は、「腹痛の原因は子どもに起因する」とは思っていなかったのではないかとおもいます。ある程度のしっかりした知識や考え方は持っている人でした。一方で、今思うと、恐怖心が強く、なじみのない環境や状況は好まない人でした。悲観的ながら、それがやや攻撃的に思われるような、過剰な防衛体制をとる場合もあったように思います。

おそらく、子どもの腹痛の原因がわからず、突然に腹痛を訴えられて不安があったのではないかと、今では思います。そして、その不安感が、子どもへの安心を与える態度をとることよりも、敏感に強力にその痛みの原因である情報を収集する行動を促したのではないかと思うのです。つまり、子どもの側から「叱られた、怒られた」と思う状態は、実際は彼女にとって怒りを表現したいのではなく、不安や心配や恐怖心を克服するための対応だったのだろう、ということです。

そんな見立てをするようになってからは、私は人前で「おなかがいたい」を言えるようになりました。なぜなら、その言葉は、本来は人の怒りを買う言葉ではなく、それを言うことで他人が怒ることはないと理解したからです。実際、それ以降、「おなかがいたい」というと、心配されて優しく接してもらえることをたびたび経験しました。

 

人は、追い詰められたとき、怒りや攻撃的な態度でその場を切り抜けようとすることがあります。窮鼠猫を噛む、という諺もあり、対面する状況が手に負えない大きなものだと、全力で当たろうとするのはあり得る対応なのだと思います。ただ、その対面する状況のとらえ方によっては、ミスマッチした場面での感情表出であったり、過剰たりして、周囲の人が困惑します。特に、怒りの表現を向けられると、人は良い思いはしませんから、人間関係がギクシャクする原因にもなるでしょう。

喜怒哀楽という感情を表す四字熟語がありますが、それに心配や共感や同情などのいろんな感情も含めて、やはり、ある程度は内面と表出が一致した感情を出す、というのは大切な事なのではないかと思います。

本当は不安なのに怒りとして表出すると、周りの人が離れる原因にもなるでしょう。
本当は淋しいのに攻撃的なことをすると、相手も付き合いきれないとおもうことでしょう。
もちろん、不安や寂しさの表出も無限に出して無限に相手が受け止められるものではないですが、その場にそぐわない怒りや攻撃よりも、理解はしやすいものです。

 

ということで、家族は小さな社会の単位、その先には所属組織や、地域社会という人間同士のつながりの場が広がるわけですが、複数の人が集まるといろんなことがあり、その中で感情のやり取りがうまく行ったり、うまく行かなかったり・・・そして、そのつながりの中から、居場所感や疎外感が出来てくるように思います。

自分の感情の出し方、相手の感情の出し方、それぞれの置かれた背景や思いを、余裕があれば考えて、より良いコミュニケーションができるといいだろうなぁ・・・と思う、今日この頃です。