日: 2020年2月13日

目に留まったニュース記事から(2月12日) ~ 将来、記憶を失うと言われたら…

おはようございます、森のすず社会福祉士事務所です。
今朝、起きてまず思ったのが「空気が生暖かい・・・」。
先日の寒さが一気に緩んだ気がします。
でも今日も一日、気を引き締めて。でも、ぼちぼちいきましょう。

さて、今朝、Googleアラートで届いたニュースの中で気になったものを取り上げます。

自分の将来は、見てみたいような、そうでないような。占いであれば、「でも、占いだし」と笑い飛ばすこともできますが、医療の中で行われる検査を基に言われた場合は、どうでしょうねぇ。

 

今日もいろいろとニュースが流れてきていますが、何となくこれです。

「アルツハイマー病検査」の進化で浮上する問題 自分が「将来記憶を失う」ことを知りたいか 
The New York Times – 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/329770 

 

ニューヨークタイムズの翻訳記事なので、アメリカでの事例です。
アルツハイマー病の検査がいろいろとできるようになり、今まさに病気は進行していて将来発症するであろうというのを伝えられるようになった昨今。
さて、知りたいかどうか、知ってどうするのか、どう考えるのか・・・

 

自分が、検査を受けて知りたいかと問われると、なんとも・・・。
知りたいような、知りたくないような、というのが本音です。

 

なぜ知りたくないという気持ちが芽生えるのか?
それは、やはり、治療法がないという点で、どうなっていくのか不安が大きく、その不安を抱えるのが怖いからだと思います。
なぜ知りたい気持ちも芽生えるのか?
それは、治療法がないながらも、「備える」ことで、先の人生を思うように生きやすくなるからです。

その時を迎えてその時に考える(もしかしたら、周囲の人が慌てて考える)のがいいか、今から自分自身で備えるほうがいいか。

客観的に、長い目で考えると、「きちんと受けられる検査を受けて、備えましょう」と言うことになるでしょう。
今の日本でも、早期発見、早期診断、早期相談、備えましょう!!ということの必要性は言われています。

理屈ではそう思う。

でも、やはり感情では、「知る」ということには、心の抵抗がある・・・。

記事の中でも書かれていますが、やはりこれからのこと、人間関係のこと、周囲の人への負担感を想像してしまうことなど、特に認知症に関することは、「自分が、いろいろわからなくなるのかも」という前提が付いてくるので、どうしても周囲への影響を考えます。
病気への偏見は、日本でもゼロになったとはいえないでしょう。
正しく理解されているかというと、そういう場面ばかりでもないでしょう。
たしかに、啓発活動は進んでいます。
認知症は身近なものになってきています。
とはいえ、のんきに「なっても大丈夫」と言えるかと言うと、まだまだ理解促進の啓発や、支援体制の整備や、医療も福祉も、生活全般も、いろんな工夫を続ける必要はあると思います。

 

その状況で、「自分どうか、未来を知りたいか?」という話となると、どうでしょうか。

これが、インフルエンザかも?と思ったら、すぐに病院へ行くんですよね。
そして、5日間待機というのは痛手ではあるものの、薬をもらって比較的すぐに楽になって、5日間のんびり家で過ごすことになるわけですが、治療法のあるものと、ないもの、治るとわかっているものと、そうでないもの・・・単純に比較できませんが、でも、その前提にある『あたりまえにある安心感、安全感』の差は大きいんだと思います。

 

だからこそ、引き続き、「認知症になっても、安心して暮らせる社会づくり」はみんなが必要性を感じて、続けていくべきなんだと思います。
記憶や判断力が衰えるのは、アルツハイマー型認知症だけが原因ではありません。
生きていく中で、頭部の損傷が原因で、いろんなことが起こる可能性は誰にだってあります。
検査で予測できる病気もあれば、だれも予測できない出来事だってあります。
「認知症になっても安心して暮らせる街づくり」というときの「認知症」は、一つの例であり、それは認知症以外のいろいろなものも含むんだと思います。

ただ、認知症というのは、高齢化が進むにつれて増えて来るのは確かで、誰もがなるかもしれないし、そもそも年と共に頭を含む身体全体の機能が衰えていくのは確かなのだから。

 

将来を知って、そこに変化があることを知るとき、誰もが悲しい気持ちになるとは思いますし、それは自然な心の動きです。
でも、そこで、「友達が離れるかもしれない、家族に負担がかかって申し訳ない」と思う気持ちが不要であれば・・・。
自分の健康状態と予後を知ることへの抵抗は、薄れるんじゃないかと思います。

 

正しい理解と、本人や家族・周辺の人をサポートできる体制が大切だと思います。

 

ところで、記事の最後に記されているこの言葉。

「病気で自分を定義されたくない」と彼は言う。

そうだな、と思います。
「彼は、アルツハイマー病です」「あの人は、レビー小体型認知症です」という表現を用いることがあります。
診断されていると、確定した表現になるわけですが、予測がなされることが一般的になれば、「彼は、アルツハイマー病になる可能性が高いです」のように使われるのでしょうか。
いずれにしても、それは病名や症状名であって、『彼』のごく一部分を伝えるものでしかありません。

病気があっても、どのような病気でも、それが認知症といわれるものでも、そうでない他の病気でも状況でも、それはその人のごく一部です。
特に、病気がその人の存在を、固定してしまうものでもなく、それが個性そのものということにもなりません。

福祉の仕事をしていると、「個別化」が大切といわれます。
バイステックの7原則にも挙げられているこの言葉。
改めて大切であると思いますし、決して病名その人の個性よりも先に来る状況で理解してはいけないなと思います。