【10連休企画10連ブログ⑩】生活のしやすさを考える~誰にも身近な、障害の社会モデル~

こんにちは。森のすず社会福祉士事務所 森保です。

何事も、振り返るとあっという間に過ぎたと感じるような…長いと思った10連休も今日が最終日。5月6日月曜日は、「振替休日」。

10連休だから10連続でブログを書くのも今日で10回目。今日のテーマは『生活のしやすさを考える~誰にも身近な、障害の社会モデル~』

私は非常に視力が悪いです。普段はコンタクトを使っています。一応眼鏡も持っていますが、眼鏡はコンタクトと見え方が違うので、眼鏡で車を運転するのは怖いのでできません。もし、目にトラブルが起きてコンタクトが使えなくなると、車ででかけることはできなくなります。もし、目にトラブルがおきてコンタクトが使えない間に眼鏡を破損して使えなくなると、ほぼ身動きが取れなくなるでしょう。

福祉領域の、特に障害者支援分野の研修などに出ると、障害とは何なのか?について話を聞くことはしばしばあります。『もし、視力が悪くて眼鏡やコンタクトが必要な人が、原始時代に生まれていたらどうなったか』というたとえ話をときどき聞きますが、狩りや採集生活では圧倒的に不利で、生き延びられなかったと思います。というか、現代社会でも、道具がなければかなり危ういです。

逆に言うと、道具が発達しているから、普段はさほど不便は感じません。コンタクトレンズの手入れが面倒だな、汗で眼鏡がずれる時、眼鏡でラーメンを食べるときは面倒だな、と思うことはあるものの。

『障害者支援』と一言で「障害」という言葉を使っていても、実際の支援はさまざまです。個人のニーズに合わせた支援をしますが、たとえば障害者と言っても、身体障害、知的障害、発達障害、精神障害と、さまざまで、4つに分類してもそれは支援する際には大雑把すぎます。とはいえ、いずれにしても、支援ニーズがあるということは、簡単にいうと『生活のなかで、お一人の力では難しい部分がある』ということです。

ところで、この記事では、「障害」と記載していますが、「障がい」「障碍」として記載していることもあります。「害」という漢字の意味が問われた結果、「がい」や「碍」が使われる場面が増えていますが、そもそも、「障害」って、なんなのでしょうか?

『障害がある』という言葉を用いる場面によって、その意味やイメージは変わります。

「Aさんには生まれつきの障害があって階段は登れない」というと、一般的には、足とかどこか身体に”障害”があるんだろうな、という理解になるでしょう。

「Bさんは障害があるコースは避けて違う道を進んだ」というと、道を迂回するイメージです。この文章だと、Bさんがどんな人なのかはわかりませんが、とりあえず、当初進もうとしていたコースは通りにくかったんだろうな、ということはわかります。でも、他の道を進むことができたんだということも分かります。

私たちが生きていく中で、何かができにくいことはしばしばあります。誰かに助けてもらってできることが、たくさんあります。違う方法を選んだり、道具をつかったりしてできることも、たくさんあります。逆に言うと、助けてくれる人がいなかったり、道具がなかったりすると、できないことが多いです。私の、コンタクトがなければ運転ができず、そうなると、仕事にも大きく差し支えるように。

『障害の社会モデル』とは、障害は個人にあるのではなくて、社会にあるという考え方です。つまり、個人の「足が動かない」とか「目がみえない」ということが”障害”なのではなく、そういう状態の人が暮らしにくいのであれば、それは”社会”に暮らしにくさの原因がある、と考えるものです。

私自身で考えると、もし、コンタクトを装着できない状態になったら、非常に困ります。眼鏡も失っていたら、家の外にでると、いろいろできないことがあります。バスに乗ろうとも、どこ行きのバスなのか表示は見えないと思います。慣れていない地域だと、お金の払い方も読めないから分からないと思います。人の顔も識別できない(コンタクトはずすと、かなり近づかないとのっぺらぼうに見えている)ので、待ち合わせしても私からは見つけられません。道の段差につまづき、きれいに磨かれたガラスに激突し、財布の中の小銭を探すのも大変なので1万円札で支払うばかりになるのかも・・・

でも、もし、すっごく大きな表示で行先が書いてあったり、なにか周りの人が行先や支払い方法を教えてくれるようなしくみがあったり、待ち合わせ相手が積極的に探し出そうとしてくれたり、人でなくてもそういうことができるロボットやツールがあれば、そこそこ大丈夫な気がします。段差を分かり易くするとか、スロープにするとか、小銭をジャラジャラ投入すれば支払えるような機械があるとか、透明なガラスは見えやすいように模様や色を入れるとか・・・。それが今の社会でできるかどうかは別としても、世の中がそんな風に変われば、コンタクトが使えなくても、外へ出ていけると思います。

私たちの多くは…というか現代の日本に生きる人は、原始時代と比べると、多くの道具や制度を、アタリマエに使って、便利に暮らしています。

羽を持たない人間が、道具を使って飛んで移動したり。
超音波を発して暗闇を移動することのできない人間が、ライトを使って暗闇を照らしたり。

社会の在り方、制度や道具をつかったり、人が協力することで、私たちの生活は大昔の時代から、どんどん便利になってきています。かつては、難しかったことも、できるようになりました。

人の工夫する力は、すごいと思います。

私は福祉領域で仕事をしていますが、中でも、高齢者支援分野、障害者支援分野、児童分野、生活困窮者支援分野、更生支援など、けっこう幅広くかかわる機会があります。その中で、高齢者支援に関しては、誰もがやがてそうなり、また身近にも高齢者の年齢に当てはまる人は大勢いるため身近に課題を捉える方が多いように思います。認知症についての啓発は、徐々にですが進んできていると思います。また、児童分野については、自分が通ってきた道、身近にもこどもがいたり、こどもは社会で守り育てるという概念が広がっているからか、関心を持たれる方は多いと思います。一方、障害者支援の話となると、前述2分野と比べると、どうも一般的に関心が薄いように思います。たしかに、人口比率でいうと高齢者や児童と比べると少ないのですが。とはいえ、誰にも無関係である問題ではないと思います。身体機能や知的機能は、怪我や病気で失われる可能性は誰にでもあります。何らかの理由で、生活上に困難が生じることは誰にでもあります。そんなとき、その原因が身体にあり、社会生活を継続するためには努力をして訓練や治療をする、という考え方ばかりでは、その結果が出ない場合には、暮らしの中の楽しさや安らぎは見えてきにくくなります。そうではなくて、人はこれまでも、力を合わせ工夫して世の中を良くしてきたのだから、これからも、お互いを理解する気持ちをもっと広げて、そして、協力していけば、より良い世の中は作って行けると思うのです。

今日で連休が終わり、明日から、あたらしい時代の社会が本格的に動き出します。

平和で、安心して、笑顔で暮らせる毎日が続きますように。

暮らしの中の、不便さやつらさや悲しさや苦しさやあきらめが、減っていく社会にできますように。

よい一日をお過ごしください。

5月の緑はほんとに美しい。そういえば、中村草田男「万緑の中や吾子の歯生え初むる」というのは、こんな緑が広がって気持ちいい中で、そんな喜びがあると、それはそれは幸せだろうなぁ。葉に反射するキラキラした光が白くみえて、まるで小さな真っ白な歯のようにも。外歩きが楽しい時期です。