【10連休企画10連ブログ①】意思決定支援の難しさ~正解も終わりもない自己研鑽あるのみ

こんにちは。森のすず社会福祉士事務所 森保純子です。

いよいよ10連休が始まりました。お休みの方、お楽しみください。お仕事の方、お疲れ様です。私も仕事入ってます・・・。

さて。せっかくの10連休なので、ブログ10連続に挑戦したいと思います。今まで書いてきたことや考えてきたことを、振り返りながら。

1回目の今回は『意思決定支援の難しさ~正解も終わりもない自己研鑽あるのみ』

森のすず社会福祉士事務所のWebページやTwitter、時々こっそり出す広告記事などには、「一人ひとりの、自分らしさを、大切に。」というキャッチコピーとともに、事務所の考え方や理念のようなことを記載しています。地域啓発や研修から個別支援までさまざまな業務を行っていますが、森のすずとしては、最終的にはやはり個人一人ひとりが、より幸せに、安心に、暮らしていける毎日になるように、活動をしていきたいと考えています。

その活動のなかで、特に個別支援では、成年後見制度関連のお仕事や、個別の相談にのるなど、その人の価値観や大切なものを考慮し進めていくものばかりです。(どんな分野にしろ、相談援助というものがもともと、個人の価値観に合わせて問題解決に向けた取り組みを行うものですから、当然そうなりますね)

特に、成年後見制度の場合は前提として、それぞれ程度はありますが、判断力や理解力が低下している方が対象です。とくに、森のすずでは、認知症の方、発達障害・知的障害・精神障害の方へのサポートをメイン業務としているため、ご自身で何かを決めたり、進めたり、管理したりすることが難しい事例の話になります。

そうなると、そのお話の中で大切なのは「意思決定」のサポートです。

人間は朝起きてから寝るまで、無数の「意思決定」をしています。目が覚めて、目を開けるか開けないか、起き上がるか上がらないか、布団からでるかでないか・・・歯磨きをするかしないか、朝ごはん食べるか食べないか、食べるとしたら作るのかどうか、何をつくるのか、どうやって作るのか、パンはどれぐらい焼くのか、何をつけてたべるのか、どの服着るか、どの靴履くか、どうやって行くか、階段を昇るかエスカレーターか、ゲームをするか読書をするか、あいさつするかしないか、・・・ほとんどを無意識に、ときどき「あー、頑張って階段のぼるか!」と意識して、でも大半をさほど迷わずに意思決定をしています。

朝出勤時にコンビニにより、ATMでお金を下し、コンビニ払いの振り込みをし、帰りに買う予定の春物スカートのお金はお財布の中でよけておいて、ランチ用のパンと朝のコーヒーを買って、店を出る。

そんなことも、さほど悩まずに日常の中でやっているかもしれません。

一方、決定するのに、すごく悩むこともあります。例えば、大きな買い物をするとき。あと2年乗るか、買い替えるか…もうレンタカーかシェアカーにするか…え~、どうしよう…コストはどうかな、ないと不便だけど、買うとなると、金額どれぐらいがいいかな、あの車ほしいけど高すぎるかな…。みたいな。

自分の中で、ああでもない、こうでもない、どうすべきか、メリットとデメリットを考えて、どんどん迷うわけです。

さて。

他人の意思決定をサポートする場合、その「メリットとデメリット」を、自分のことのように考えるのはなかなか困難です。デメリットは比較的分かり易いものですが、メリットは、何を持って良しとするのか、個人差がおおきいですから。もちろん、デメリットも、私が良くないと思うことが、その人も良くないと思うとはかぎりません。

「あれ?そっち??それ選ぶの??」

友達や家族といても、よくある話ですね?

福祉的な支援を必要とされる方の場合、どうしても、ご自身の意見や好みや思いや嫌なことや大切なことを、周囲に伝えにくい状態にある場合が多いと思います。それは、例えば認知症で理解や判断や言葉での表現方法がうまくできなかったり、発達障害によって感じ方が敏感な部分があるけれどそれをうまく説明できなかったり。なんらかの認知機能の低下した状態によって、低下がなければ伝えられるのに、結果として伝えるのがむずかしかったり。いろんな状態があると思います。

朝起きてから、無数の意思決定をするということを書きましたが、その意思決定の大半が無意識にされていますが、それですら、無意識のなかで周囲の情報や状況を考慮しておこなわれているものです。

意思決定には、情報を知覚し、取り入れ、分析し、判断し、決定し、行動する一連の認知機能の働きが必要です。もちろん、それが一連しているものであり、統合的こなわれるためには、記憶することも大切です。

そして、それぞれの意思決定を行うプロセスでは、例えば聴力・視力・触覚などの情報を得る身体の器官の働きも必要ですし、情報を得るためのツールを操作できることも大切な場合があります。記憶をするには、脳の記憶の機能が、分析するにはまた別の脳の機能が…一つのことを決めるのに、いくつもの情報が取り入れられ、総合的に考えるということも行われます。

私たちが、ある程度無意識にやっていることですら、本当はかなり複雑なプロセスを踏んでいます。同じことをロボットにできるようにするには、なかなか困難で、ここ数年でやっと人型のロボットを街中でみるようになりましたが、それですら、人間ほどの巧みで多種の動作をするわけではありません。

ですので、他人が他人の「意思決定」をかわって行おうとすると、これはなかなか至難です。だれもが悩むようなことほど、より一層難しいものです。価値観の判断が入ってくると、その人にとって何が本当に大切なのか、快適なのか、心安らぐのか・・・それを正確に把握することは難しいです。

他人が行いにくい意思決定の代表としては、「延命治療をどうしますか」という話。たとえば、私は私自身のことについては「絶対に延命してほしくない。針とか管とか、嫌です!救急車も呼ばないでください。そっとしといてください。」という意思を今は強く持っています。しかし、それは私の思いであって、他の人がどうかはそれぞれでわかりません。なんとしても延命してほしい人、こういうものならやって欲しいという人、何もしてほしくない人、その他いろいろ。

命の話だけでなくても、最近であれば「地域でくらすか、自宅か・便利なところに移り住むか、施設に入るか」という、人生の終盤の暮らしについてどうするかは悩むところであり、他者の意思決定を支援する場合にも悩ましいところ。

結局、支援をして何かを決めていく必要がある場合、最終的に何かを決定しなければならないのですが、それまでには、「これでいいか、だいじょうぶか、これでどうか?ほんとうにいいか?」という問いは、本人へも、支援者のなかでも、繰り返し行われる必要があると思います。意思決定をしたあとも、支援者のなかで「あれは本当にあれでよかっただろうか、もっと違う道はなかったのか」と振り返り見ることは、たとえ本人にとっては後戻りはできないことであっても、次の人、未来のケースに対して、大切な責任だと思います。

意思決定支援は、本当に難しい。

自分のことではないからこそ、悩む。

もし、私が私のことをきめるのなら、選び間違えた結果は、私自身に返ってくる。私が我慢をしたり、損をしたり、痛い目をみるだけのはなし。

しかし、福祉的に意思決定支援が必要な人の場合、最終的にその結果を受けるのは、その人本人である。

私の説明が、その人の意思を誘導してしまう部分はおおいにある。

ほんとうに、幸せが一つふえるのか?その人にとっての安心が一つふえるのか?その分、何か大きな大切なことを、失わせてないか?危険にさらすことにならないか?

そんな思いは消えない。消すべきでもない。

権利擁護をしているつもりが、権利を奪うことにならないように、と思います。だからといって、なんでも「自立」「自己責任」で済ませないように、とも思います。その間の絶妙なバランス点を見つけていくことも、社会福祉士の専門性だと思ってます。

私にとって、社会福祉士として意思決定をサポートし、権利擁護の活動を行うことは、終わりのない研鑽のなかで私自身が知識やスキルを日々身につけ、前へすすみながら行っていかなくてはならないと思っている。

森のすず社会福祉士事務所は、もっともっと、豊かな森のようにいろいろなものを育めるような、あなたの、何かになりたい。

そんなふうに思って活動しています。