【10連休企画10連ブログ⑥】座右の銘を考えながら・・・
こんにちは、森のすず社会福祉士事務所 森保純子です。
10連休に便乗した10連続ブログも、今日で6回目。『座右の銘を考えながら・・・』
ひょんなことから・・・実際は、兵庫県社会福祉士会の調査研究委員会が開催する調査研究の研修のスタッフとして、自己紹介用の資料を作る為に、「座右の銘」を記入しなければならなくなり、考えていました。
そういえば、もっと昔の若いころ、座右の銘を持つ、というのがいまいち何のためなのか分からず、適当に答えていました。
その後、それを持つ意味をしっかり理解したわけでもないのですが、ここ10年ぐらいは「大抵のことは、なんとかなる」というのを書いていると思います。
この度、これを機会に、座右の銘ってどういう言葉がいいか考えてみました。
候補とするような言葉の一覧は、検索するといろいろまとめたものが出てきます。今の時代、便利ですね。なんでも簡単に調べることができます。「座右の銘にされている言葉一覧」などを見ると、誰が言った言葉なのか、どんな意味なのかが分かり易くまとめてあります。
早朝(今、5時半ぐらい)から、座右の銘にされる言葉を見ていると、妙にやる気が出てくる気もします。
座右の銘にされる言葉には、それが著名人や漫画の中のセリフでも、やる気を奮い立たせるようなものが多いです。元気な時に聞くと勇気ややる気がでますが、凹んでいるときに聞くとより一層なんだか凹みそうな・・・。
とはいえ、そういう前向きにガンガン行くような言葉ばかりでもなく、落ち着いた言葉、周囲に感謝をしなければいけないよ、というような言葉もあります。そうだなぁ~と思いながら読みました。
私がいいなぁ、と思う言葉は、座右の銘にこそ挙げませんが「人間万事、塞翁が馬」という言葉。この「人間」は「ジンカン」と呼んで人間が生きている世間や社会のことを言うのですよ、とどこかで習った気がします。いずれにしても「人間万事、塞翁が馬」だけを見ても何のことやらわからないのですが、その意味が、人間の人生では、何が良くて何が悪いかなんてその場ではわかりませんよ、ということだと聞くと、そのとおりだ!!と思います。
いろいろありますね、生きていると。自分だけで生きているわけでもないので、自分が思ってなかったことを周囲から影響を受けてしまったりすると、「え、なぜ??はぁ???冗談じゃないわ」と思うこともありますが、それが最終的に本当に悪いことなのか、良いことの切っ掛けなのかはわからないです。また、それが、良いのか悪いのかという2択から結果がわかるものでもないかもしれません。自分がやってしまったことも、今は失敗に思えても、あとから、それでよかったなと思うこともありますし、逆もあります。
そういう時(主に、失敗したり困っている状態のときですが)に、その言葉を思い出すと、まぁいいか、今はしかたないか、やれるところだけやっとこう、と思います。
こうやって書くと、「人間万事、塞翁が馬」は十分に私の座右の銘として機能しているように思います。
さて。
結局、今回、座右の銘をきちんと決めようかなと思い、いろいろ探したのですが、定まりませんでした。なので、提出用の資料も、Twitter等に書いているプロフィール欄も、やっぱり「大抵のことは、なんとかなる」のままにしておきます。
実は、これを座右の銘というか、時々思い出す言葉になっているのにも、一応訳があります。
明石家さんまさんが、「生きているだけでまるもうけ」と話されているのを聞いたことがあります。先日、「死ぬこと以外はかすり傷」という言葉を教えてもらいました。
(この「死ぬこと~」はネット検索してみると、テレビ番組のインタビューで出てきた言葉のようですね。ネットって便利。)
生きること、死ぬことは、やはり、窮地に立っている人間にとってはものすごく身近に考えてしまう場合のあるものです。特に「死」について。でも、私が思うのは、基本的には「生きる」ということは欲望としてとかではなく、当たり前のこととしてあるものだということです。「死」がちらつくと、「生きたい」という気持ちとして表現されるかもしれませんし、「死」しか逃れる手段がないとすると、「生きたくない」になるのかもしれませんが、大前提として、「生きる」というのはそもそもさほど意味を問わずにあるものではないのだろうか、と思うのです。
その辺、いろいろな考えがあるともいますが、私はそう思います。
人間も、どんな動物も、自分が生まれようと思って意思をもって生まれてくることはありません。生まれた結果、そこに意識ができ、自分の人生という考え方がやがてできるようになるんだと思います。
その中で、人は死を理解する生き物に進化しましたが、若いうちに自ら死を考えなければならないというのは、とても悲しいことだと思います。という私も、どちらかというとかなり「死」を考えるほうに近い状態だったこともあり、もちろん、それは今でも想像しようと思うと想像できますし、当時のことを思い出すと、その時の気持ちがよみがえるわけですが。何かが少しちがっていれば、今を生きることはできていなかった可能性もあるように思います。
とはいえ、少し離れて考えてみることができれば、道は他にもいろいろあるんですよね。でも、辛いことや行き詰ったことで頭がいっぱいになると、考えを柔軟にすることができなくなります。なんとなく、唯一の考えが、そこにある、とおもってしまいそうになります。
そうではない、ということを表現したい、と思ったのが「大抵のことは、なんとかなる」です。「大抵のことは」とつけているということは、「大抵ではないことがある」という意味なのですが、それは、唯一、死に向かって自らの行動を起こしたとき、やっぱり戻りたいとおもっても、戻れない瞬間以降のこと、です。
わかりにくいでしょうか。要は、取り留められない状態になって、「やっぱり・・・」と思っても、それは難しいということ。
なので、そうならないように、そこまでに至らないように、もっと手前で、「大抵のことは、なんとかなる。大丈夫、いまなら、いろいろ方法がある、考えよう。」と言うことを伝えたいとおもいます。「生きているだけでまるもうけ」や「死ぬこと以外はかすり傷」は、たぶん、私が日ごろ思うことをポジティブに表現しているんだろうな、と思います。なので、その二つは、座右の銘としてあげませんが、いい言葉だな、と思います。
そんなわけで、私の座右の銘を見直す作業から、結局は、やはりこのままもうしばらくこれでいこう、となる中で、自分の考えを見直してみました。
人生は、いろいろあります。命は一人に一つ、というのは確かだとおもいますが、それが生きる状況は、ことごとく不平等で、自分の思い通りになることのほうがすくないのかもしれません。生きる時代も国も家庭も、性別も、なにもかも自分の狙った場所に生まれて来るようなコントロールはできません。
とはいえ、月並みですが、生まれてきたら、きっと「あぁ、今日はよかったな」とおもったり「たのしいな」と思うことがあるはずです。あるべきだと思います。その思いは、誰にでももたらされる必要があるとおもいます。
「よかったな」「たのしかった」という幸せな気持ちが、一つでも人生の中にたくさんあるように。
私の座右の銘では、「大抵のことは、なんとかなる」から、困った状況のなんとかする道がどこにあるのかを一緒に考えて探しましょうか、というのが私の支援におけるイメージです。
まぁ、ぼちぼちと歩んでいきましょう。