【参加】世界アルツハイマーデー記念講演会~”生きる”を支えるケア~
世界アルツハイマーデー記念講演会(認知症の人と家族の会 兵庫県支部主催)に参加しました。神戸学院大学の備酒先生の、「”生きる”を支えるケア~認知症ケアを疑ってみる 考えてみる」をテーマにしたお話を伺い、私が考えたことを記します。
35年の時を経て、変えることができた
『35年前の神戸市内、当時は老人病院というのがあって、その印象はすさまじかったです』
そんな衝撃的なお話がありました。具体的には・・
40人部屋があった
男女混合で部屋に入っていた
低いパーティションで8名毎に区切られていたが、看護師側からは全員の顔が見えるような配置だった
ご飯をたべるときは、ベッドに布団を丸めて置き、寄りかかって食べていた(当時主導のギャッジアップベッドですら少なかった)
ごはんを食べているよこでオムツ交換が行われていた
今の病院や老健、特養などの状態から考えると、信じられないような状況です。
想像しただけでも、衝撃的・・・。
それから35年。
いまでは、個室をもつユニットタイプが一般的になりました。
介護の在り方は、変わった、変えることができた、ということは、その話を聞くと実感できます。
そして、まだまだもっと、変えていくべきことはある!
「でもだって、今の現状じゃむりだし・・・」って思いこまないようにしたいと思いました。
そう、変えていく方法を考えなければ。
何をどう変えていけばいいのか、どうやって変えていけばいいのか、少しずつでも続けていくことが、また数十年後に振り返った時には大きな変化になっているのだと思います。
その当時、たしかに思い起こすと、命を長らえるということが、もっとも優先されるべきものだと思っている人が多かったように思います。
その結果、日本ではかつては自宅で死ぬことが一般的だった社会から、病院で死ぬのがアタリマエになり、『畳の上で死にたい』というのがなかなか叶えられないものとなりました。
でも時代は変わり、変わらざるを得ない状況にもなり、最近では『在宅看取り』もできますし、むしろ人生の最期まで住み慣れた地域で暮らす、という方向に向いてますね。
日本人はとても長生きになりました。
医学が進み、幼くして亡くなる子どもを救えるようになり、高齢者の年齢もどんどん伸びて最近では100歳を超える人も珍しくはなくなりました。
いつまでも元気で楽しく!というのが、多くの方の希望ではないかと思います。
一方、寿命が延びたことでいろいろと課題にもつながっていますが、その一つが認知症になる方が増加することです。
2025年には団塊の世代の方が全員75歳以上になりますが、高齢の人口が増えるにつれ認知症になるであろう方も増える見込みです。
予防をしても、完璧には予防しきれない・・・誰がなっても不思議ではない・・・というか、長生きすればするほど認知症になりやすく、「なるもんだ」と思っておいた方がいいんじゃないか・・・とか。
そんな風にも思います。
とにかく、認知症は、とても身近な病気だということが、なんとなくでも知識として浸透してきたかと思います。
『社会みんなで支える介護』
さて、その認知症の方へのケアです。
2000年に介護保険が始まったときには、「介護は社会で支える」と言われました。
介護保険は、国民・市民から保険料を徴収し、そのお金を介護サービスにあてていこうという、共助の仕組みです。
とはいえ、やはり中には「介護は家族がするもの」という考えも根強く、周囲の人の目を気にして、介護サービスの利用を控える人もいらっしゃる、という話を聞きました。
せっかく制度があるのだから、必要なときには使いましょう!
周囲からも、「使ったらええやん、制度があるんやから、一人で抱え込むことないって」って、言ってあげたいものだな、と思います。
介護は、社会みんなでやることです、というお話に、賛同です。
それを、声にだして言っていこうと思いました。
さて、介護の仕事は、35年前の40人部屋の時代からは大きく変わってきました。
当時は、「生物レベル」で命を守ることが優先されたケア。
最近は、「人レベル」で生活を支援することが優先されるケア。
社会の考え方が大きく異なっていると言えますね。
私も、支援をする際には、もちろん命の保護も大切に考えますが、それと同じように大切なものは、生活やその人の「楽しい・快適」という気持ちを保つことを考えます。
命だけで生きているのではない、というのは、私の支援モットーです。
講演の中では『ケアの本質にかかる議論はあるか?何のためにケアをしている?』と問われました。
何のために・・・先生の答えは『出口をつくること』でした。
私はなんと答えると、私が考えることを表現できるだろう?と考えています。
いずれにしても、大切にしたいのは、ご本人。
『生まれてきてよかった、生きててよかった』と、一つでも多く思えるように。
私はそう思います。
人間は、ときどき「なんのために生まれてきたんだろう」と人生の意味に迷うことがあります。
それは、日々社会参加する中で、やがて自分の役割を得たり、明確なものは得ていなくても、忙しさの中にその問いを繰り返すこともなくなったりするかもしれません。
ただ、高齢の方の場合、とくに身体の状態などで、ベッド上で過ごす時間が増えて来ると、何をかんがえるのだろう?と思います。
たとえ認知症になっていたとしても、考えることってあると思うんです。
「こんなもんかな、、、しかたないな、、、さみしいな、、、やるせないな、、、」
もし、そんな思いを抱いていらっしゃるとすれば、一つでもいいから『あぁ、今日は良かった』って思ってもらいたいなぁと思います。
そのために、いろんなお話を聞きたいですね。
お話ができなくなっていても、向かい合いたいです。
『本人のやりたいことをやれるように、考えるのがケア』
結局、私たちは、他人とは全く違う人間です。
それを理解しておくことは、私が見えているものと、相手からの見え方が違うことに気づいたり、価値観ややりたいことなども違うのだということを気づくことにつながりますね。
特に支援者側としては、一に安全、二に安全、ずーっと安全第一!になることが多いかもしれません。
安全は、大事です。大切です。
でも、何のための安全か?それは本当に、安全なのか?ということも考える必要があるようです。
例えば、安全を求めるあまり、ずっとベッドの上にいると「廃用症候群」と呼ばれる状態になり、全身はあたまも含め弱っていくでしょう。
本当に、これが安全なのか?というと、疑問がのこります。
たしかに、歩こうとして転倒して骨折することはないかもしれませんが・・・
本人が望むこと、それが一見無理だと思っても、その望みを一緒に叶えることを考えていき、実行していくことは、人を支援するときにとても大事な信念だと思います。
いま行っている支援について、振り返り、疑ってみる、考えてみることは未来をよくするために大切ですね。
いろいろと、考えることを得た講演でした。