森の奥底

生きる意味とか目的とか。世間が楽しいと考えたくなること。

こんにちは。森のすず社会福祉士事務所 森保です。

ひんやりした森の奥底。たまに考える、いろんなこと。どっちかというと、ひっそり暗い雰囲気のこと。そんなエッセイ「森の奥底」。

「生きる目的とは?」そんな答えのなさそうな疑問が、世間が楽しそうに見える時期には考えたくなります。『いいな、楽しそうで…。』という気持ちがあるのかもしれません。『それに比べ…。』という気持ちがあるんだと思います。それなりに日々暮らしているつもりですけれども。

何かの研修で聞いたのですが、『デフォルトモードネットワーク(DMN)』という言葉。その時の研修の内容は、確か、集中が解けたふとした時に嫌な思い出が湧き上がるがその働きはDMNのしわざだという話だったように記憶しています。

いずれにしても、DMNは、脳が何か目的をもった処理をしていない間、つまり「ぼーっと」しているときに働いている、脳の「デフォルト」の働きということのようですね。デフォルトとは、コンピュータの話ででてくる言葉ですが、初期設定という意味です。

このDMNの働きは、自己認識・見当識・記憶に関する働きなんだとか。

だから、ふと集中がきれたり、特に考えることがない時に、「そうだ、あのとき、こんなことがあって・・・」と次々記憶がよみがえってきたり、「はぁ、、なんか、私ってなにしてんだろうな」と突如むなしく思うようなことが浮かんだりするようです。

ちなみに、もしかすると人によっては、DMNの働きの自己認識により、「わたしって、すごい!すてき!」という良い考えも浮かぶのかもしれませんが、残念なことに私はマイナスのことが浮かぶタイプなので、そのあたり、よくわかりません。

まぁとりあえず、やることがなくなると、ろくなことを考えない、というのは私には当てはまります。一人でいると、どんどん暗くなっていくタイプでしょう。ひきこもると、変込んでいくんだと思います。

そこに10連休。やることはいろいろあるので、その間はいいのですが、でもやはり平日と比べると隙間時間が多いです。おまけに、世間は楽しそうです。そんな状態をみると、自分の存在価値や生きることの意味とか価値を、ついつい確認しようとしてしまいます。

何のために生きるんだろうな、という問いは繰り返し、生きてきた中で浮かんできます。

自己啓発本には、生きる意味を教えてくれそうなものもあります。
生きる意味なんてない、というような話も聞きます。
ただただ生きるんだ、という意見もあります。
何かのために生きているわけではない、という言葉もあります。
目標を達成するためだ、とか、幸せになるためだ、とか、そんな話もあります。
目的を探すためだ、とか、そんなのを探すのはナンセンスだ、とか。

要は、これっていうものは、ないんでしょう。
自分が納得できる言葉で、納得しておけばいいものなのかな、と。

たぶん、明確な使命を理解した状態で生きている人もいるし、意味ないわ~と思いながら生きている人もいるだろうし、意味をさがしている最中の人もいるんだろうなと思います。

私は、最近は、意味は何だろうと思うことはありますが、そこにがむしゃらな力を注ぎ考えることはやめました。
いや、やめたというか、考えるパワーがなくなりました。

仕事柄かもしれません。支援ニーズのある方にたいして、『どうすれば、良いこと一つふえるんだろうな』と思う部分に気をとられているので、DMNが働く時間が減っているようにも思います。

自分のことが後回し、というのは、DMNの働く時間が減ってきていて、自己認識の方法に変化がでてきているのかもしれません。

単に、年をとったというだけかもしれません・・・。

私もそろそろいい年になったからか、生きる死ぬを能動的に選ぶ考えは減りました。生きることに目的を探すことは、パワーがいるなぁと思うのです。だからこそ、生きるのを捨ててしまおうとする人には、そのとても大きなパワーの使い方を、方向転換して幸せを手にできるものに変えられないかと思ったりもします。

結局、私にとっては、何のために生きているのかは、よくわかりません。

存在価値とか、そういうのも、価値の有無というよりも、事実としてここに存在しているものだとおもいます。誰かが、そばにいてほしいと思う存在だからいて良いのでもないし、誰かが存在価値を否定したから価値がないものでもなくて。

ただ、ここに今いること、それが自然であって、必然であって、それであること。

ただ、「生きる意味もない、死んでも一緒」と思う場合、たぶん、実際に人の死がの中を大きく変化させることはなく、死んでも淡々と毎日は続いていくマクロな視点と、その中のミクロな自分の意味とを、視点を使い分けながら納得してるんだとおもうんですけどね。

でも、自然に対して自分がここにある、という事実に加えて、人間は、社会を作って進化してきた動物だ、ということは確かだとおもうんですよね。

だからこそ、言語が発達し、情報を共有し、引継ぎ、世の中が進化してきた。

その歴史の中に、大きな変化を加えられるような人物はごくわずかだけれど、でも、人はお互いに影響を与えていることも確か。

もしも、何でもいいから生きる意味が欲しいとおもったとき、私はこう思うようにしています。

生きてる間、自分のためと思えなくても、誰のためと思えなくても、食べて寝る。それをつづける。そうすることで、社会には自分の影響を、与える変化は見えなくても、与えている。それでよい。

そんなふうに、DMNの起動後は、定型文のように思うようにして、「あぁ、なんだかむなしいわぁ」と思う気持ちに区切りをつけています。

ぐるぐると考え始めた脳みそには、『まぁ、いいか』スイッチで強制中断っていう手もありますけどね。

そうこう考えながら、時間は経っていくようです。

それにしても、心の森にはいろんなものが潜んでますねぇ。そんな中、何かに気持ちをもっていかれそうになったら、凜と鳴る鈴の音で我に返り、安心する。そんな支援ができるようになりたいなぁ。