本・論文の紹介『「想定外」の社会学』

【読書の記録9】
『東日本大震災と社会学』から第10章『「想定外」の社会学』
『想定外』という言葉は、トラブルが起こった時に便利だ。
宿題を提出日までに出せなかった時、言い訳として『昨日やる予定にしていたのですが、想定していなかったことが起こってしまいまして、そちらの対応に時間をとられてしまいました』とか。
しかし、想定できてることとか想定できてないことって一体どういうものなんだろう?

東日本大震災は、何もかもが想定外だったようだ。
あんな規模で、あんな広い面積で、あんな津波が、あんな破壊力を持って、押し寄せてきて、人の命や生活を破壊していくとは。
本の中では、これは専門書なので、筆者の意見や考えだけではなく、他の人が書いたり話をした文章をもとに、『想定外だった』と言う説明を後からすることの是非について少し書いてある。
専門家が想定外と言う言葉を簡単に(おそらくそう簡単にと言うわけでもないのだろうが)使ってしまうことで、逃げのようにも聞こえてしまうし、専門家のくせにと思われることもあるだろう。
とは言え、では何でも無限に想定して無限に対応していけばいいのかと言うと、それは夢物語で、何かのリスクを想定して、それに備えられるように対応するにはお金も必要で、今の世の中では、危険なことが実際に起こる見込みと、そこにかけられる費用を考えて、対応するしかない部分もある。
私たちの日ごろの生活も、ありとあらゆる危険性を考えて、それに備えて対応や行動するように徹底しろと言われると、いろいろとそれはそれで難しいだろうなぁと思う。
とっさの避難を考えると、おちおち、湯船に入ってNetflix見ようか、とか、今日は記憶を失うまでとことん飲んでやるぞとか、やっている場合ではない。
おそらく私たちは、無意識のうちに、この短時間の間は…とか、今日、夜、明日この数日は、何か大きな困り事が発生する事は無いだろうと思って、毎日楽しい生活を過ごそうとしていると思う。
だんだん話がそれるが、彼氏とデートに行く時に、ひらひらとしたかわいいワンピースで、頑張って高いハイヒールを履いて、おしゃれな小さなカバンに、小さなお財布と、スマホと、少しのお化粧直しの道具を入れて出かけてきた彼女と、トラブルに巻き込まれて、10キロの山道を歩かないといけないとなったら、どうするだろうな。
人間には、予想するとか、常識を考えるとか、過去の前例に従うとか、素晴らしい能力が備わっている。
そのどれも、今まで経験したことや誰かに教えてもらったことから、これから先どうなるかどうするべきかを考えることになる。
デートに行く時に、今日はクラシックの音楽会に行こうとわかっていると、それなりな格好するだろうし、クラシックの音楽会に行こうと言われていたはずだったのに、突然アイススケートに行くって言われたら、全くもって想定していなかった。展開に対応できないような服装をしているかもしれないし、想定することと、想定を外す事は、どんな展開になるかと言うのはなんとなく想像できる。
想定する力があり想定することができると想定するので、想定した範囲で対応することになる。
この本の中では、その『想定する』と言うことの危うさに触れている。
例えば、ハザードマップ。
私もよく言うけれど、『まずハザードマップを確認しましょう。自宅はどんなハザードがありそうですか?』と言う話。
真面目な人は、家に帰ってからハザードマップを確認するだろう。
そして、自宅の場所が、どうやらハザードがある。エリアから少し距離があって、安全なようだ、となると『良かった、やれやれ、一安心』と思ってしまう。
それは本当に安心なのだろうか?安心していて良いのだろうか?
その家が、強力な岩盤の上に立ち、ものすごく頑丈な作りで、家の中もほとんどものもなくて、山や川にも接しておらず、海からも遥か遠くに離れ、広い平地の中にポツンと一軒家…みたいなのだと、風水以外のハザードはありませんよ、と言われると確かにと思うかもしれないが。
ただ、それだとしても、何かの危険が0と言うわけでもないだろう。
ハザードマップは、ある程度の規模を想定した事態が起こることを想定して、それがもたらす浸水はどれぐらいか、土砂災害はどれぐらい広がるか、みたいなことが計算されて表示されている。
もともとの計算のところに、雨量や震度等の大きさとその土地の特性を合わせて、いろんなことを想定されて計算されている。
想定外になることも含めて、対応をするならば、ハザードマップを見て、あなたの家も含めて、その全域に期限が及ぶとすれば、特にどこが危ないかが表示されているだけであって、あなたの家は、ハザードの色がついていないからといって、100%絶対に安全だと言うことを保証するわけではない。
ハザードマップには、避難所が書いてある。
自宅の最寄りの避難所がどこにあり、それ以外にも避難所がどこにあり、通って行ける道はどんなルートがあるか、その道は、途中に危険なところがあるかないか、高さやアンダーパスの有無を検討するには、情報得るために役に立つ。
東日本大震災の津波は、想定を超えていたために、そんなところまで津波が来るとは思われていなかったところまで来てしまい、内陸の方で犠牲になった方が多いと言う。
そういえば、阪神淡路大震災の時は、その地震の大きさを伝えるのに、送信できるラインが損傷してしまい、どれほど大きな地震が今起こったかと言うことがしばらくの間伝えられなかったと言う。
私たちはいろんなことを想定して準備をしようとしている。
想定しても想定しても、それ以上のことも想定しろと言われると、キリがないと思うし、私たちは結局無力なんじゃないだろうかと言う方向に流れそうになる。
ただ、想定して行うことが、例えば堤防の高さだったり、建物の強度の設計だったり、建築物や建造物、人が作り、一定以上の力で乗り越えられてしまうものの場合、想定を超えたものがやってきてしまうと、どうしようもない。
でも、強くしておくことで、時間稼ぎはできる。
確かに、5メートルで溢れる堤防よりも、10メートルまで耐えられるようになっていたら、その差の5メートル分は、時間が稼げる。
その間に、人が力を合わせてできる事はたくさんあるし、人の力の合わせ方は、様々に臨機応変に対応可能だ。
この本では、ハード面は時間稼ぎに対応し、ソフト面では臨機応変に対応することが可能だと言うことを述べている。
一方で、ハード面が時間稼ぎをしてくれ、その結果、そうたびたび小さめの災害が起こらなくなり、人が災害を経験しなくなり、その対応力が失われていたことも指摘している。
私たちは、わざわざ小さな災害を経験する必要はないが、進化した技術力によって強いハードを持ち、のんびりと暮らせる時間が得られた分、過去の災害から学ぶべきことを述べ伝え、学び、知識として身に付けておかなければならない。
それが、いざと言う時に、ソフトの柔軟性を発揮し、臨機応変に命を守る行動を取れることにつながる。
と、いうことで、いろんな条件から想定して対応する範囲は決まってしまうのだけれど、どんな想定外があるかを具体的に想定はできなくても、自然は想像を超えてくると言うことを念頭に置き、ときには、ありもしないかのようなことも想像しつつ、そうなったらどうするかを考えておくべきなようだ。
むしろ、専門家の方が、過去のデータにとらわれてしまって、想定することに引っ張られやすいかもしれないなぁ。
自由な発想は、経験や効果や過去に縛られないほうがやりやすい。
宇宙人が攻めてくる想定は、大人になると、人の前で堂々と話をするのはちょっと難しいけれど、でもそんなことになったらどうやって命を守るかと言うことを考えてみるのもいいかもしれない。
私がフリーズしているときは、そういうことを妄想している時かもしれないので、何考えていたの?と聞いてください。
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『東日本大震災と社会学: 大災害を生み出した社会』
から
第10章『「想定外」の社会学』 田中重好
出版社 ‎ミネルヴァ書房 (2013/3/1)
発売日 ‎2013/3/1
言語 ‎日本語
単行本 ‎348ページ
ISBN-10 ‎4623065065
ISBN-13 ‎978-4623065066