日: 2023年9月16日

「自分の人生を生きる」自分と他人

何か物事を決めるとき,その決定権が誰にあるか,それが妥当なのかそうでないかの確認は,福祉の仕事をする上でしばしば重要になることだと思う.

認知症になったり,知的障害や精神疾患などで,理解が難しい状態になることがあるが,だからと言って,決定する権利が消滅する者ではない.
当たり前だが,その人の人生を生きるのはその人であり,その人生をどのように生きるかは,その人次第のものであるべきはずだと思う.
もちろん,公共の福祉に反したり,誰かに迷惑や過負荷をかけっぱなしになるのは良くないし,それは相手の「自分の人生を生きる」ということに影響をしてしまうので,なんでもあり,というわけでもないのだが.

「私のことを私無しで決めないで」というような言葉は,福祉業界で権利擁護や意思決定支援の研修をするとよく聞く言葉である.
すごく聞きなれた言葉で,なんとなく当たり前のことだと思っているが,私たちが,「私のことは私が決める!」と思えるのは,どうしてなのだろう?と考え始めると,例えば思春期に自然とそう思うのではなくて,育ってきた中の経験や教育が積み重なって,その考えも育ってくるものなのだろうと思う.

私たちは,支援者や保護者という立場に立つとき,良かれと思う責任感で,相手のことを過剰に構いすぎている部分があるかもしれないし,「こうあるべき!」と自分の生きる価値観を押し付けているかもしれない.
先回って,(支援者らが思う)模範的な人生を指示したり用意したりすることは,支援者がなんとなく正義になったようで,支援者にとっては心地がいいかもしれない.
でも,その心地よさは,支援者側の感情であって,本人がその人生の在り方を良いと感じるかどうかは別問題である.

なぜなら,支援者と当事者は,まったく別の人格の存在なのだから.

権利擁護の観点から考えると,本人の自由を制限してしまう場面は多い.
光熱費の支払いや,必要最低限の食費や,家賃をなくしてしまうほどに,趣味嗜好に出費してしまうことをヨシとするのは難しい.

結局は,その人の人生はその人が生きるのだから,日々をどのように生きるかはその人次第になっているので,「その人の人生がその人にとって良いものになるためには,その人がその人の人生へ積極的に良いもになるように関与する」ということが大切なのだろう.

そして,本人の協力が必要であれば,本人の納得や合意や理解が必要であるので,結局は,「本人のことは本人抜きで決めても,実行できなくて意味がない」なのだと思う.

そしてそれは,小さな子どもにはその自由に決める範囲に限りはあるけれど,そのように考えることは大切で,自分の人生を自分主体に生きて,他人はまた他人の人生を主体的に生きていることを理解して,協力し配慮しながら社会を作っていくのだと,経験して学んでいけたらいいのだろう,と思う.

 

森のすず社会福祉士事務所の取り留めない独り言.