おはようございます。
最近、転んだことはありますか?
私が、一番最近の転んだ記憶は、10年ぐらい前のこと。
家の中で飛び跳ねていたところ、ちょうど冬場でコタツをだしていたのですが、その掛布団(?)の側面で滑って転んだことです。
家の中で、飛び跳ねてはいけません。
ところで先日、相田みつをさんの「にんげんだもの」という言葉が、壁に掲示してあるのを見ました。
この「にんげんだもの」という最後のフレーズは良く見聞きするので当然知っていたのですが、その前の部分があったとは!!と、ちょっと驚いたのとともに、その内容が、いろいろ考える切っ掛けになりました。
引用すると
七転八倒
つまづいたり ころんだりするほうが自然なんだな
にんげんだもの
(相田みつを)
だったんですけどね。
この、相田みつをさんが述べる『つまづいたり』『ころんだり』は、実際に、身体がスッテンコロリンと転がることだけでなく、精神的な躓きや転がりも含んでいるのだろうか、とか、人間だからそういうのがある方が成長にもなるし自然なんだろうな、とか。そういう、解釈は人それぞれだとおもうので、そこに感銘をうけたり、そうでもなかったりは自由だとおもうんですけれど。
私が考え始めたのは、「なぜ、転ぶのか?」ということです。
高齢者が転んでケガをするのは、よくある話です。
私が担当する利用者さんについても、施設や在宅支援者から「転倒されました」という連絡が入ってくることがあります。怪我がなければ一安心。なぜ転んだかの、ある程度の原因の把握も大切だとおもいます。
「なぜ、転んだのか?」
転ぶまでの過程がわかることもあります。
『大きな荷物を運ぼうとおもって、もち上げたら、そのまま後ろにひっくり返った』
『床に落ちたハンカチを拾おうと思って、そのまま転んだ』
『カーテンを閉めようと思って、身を乗り出したら、そのままベッドから落ちた』
『歩いてたら、ちょっとした段差があって躓いて転んだ』
『走ってたら、コードが足に絡まって転んだ』
『嬉しくて、家の中で飛び跳ねたら、コタツ布団の斜面に足を取られて転んだ』
まぁ、いろいろとあるわけです。
高齢になり、足腰が弱ると、歩いている最中にちょっとバランスを崩すようなことがあったり、ちょっと杖が床の摩擦で引っかかったりすると、転んでしまうこともあるでしょう。
ものすごくおおざっぱに、転ぶ理由を考えると「動くから、転ぶ」とも言えます。以前は、「人間は二本脚で立ち上がって歩くから、転ぶのだろう」と思っていましたが、四本足で立っていた私の飼い犬が勢い余って床で滑って転んだのを見てから、転倒の根本原因に「人間の二足歩行説」を考えるのはやめました。そして、もっともっと根本のこととして、「重力に逆らった動き方をしていると、その合間に転ぶことが起こる」と考えたわけです。
ずっと寝ていたら、転ぶことはないでしょう。
わかりきったことを延々と考えているように思えるかもしれません。身上保護・身上監護や、在宅生活のきりもりを支える身としては、『できるだけ安全にいてほしい』というのと『できるだけ社会参加をアクティブにしてほしい』という、相反する要素のあることを実現しなければなりません。「なぜ、転ぶか」という基本的な問いは、転倒を避けるとともに、転倒リスクと、そのリスクを回避する際に生じるリスクの検討に必要です。
そして、思うわけです。「転倒を100%なし」にすることは、基本的にできないと。
あとは、回避したり除去できる原因と、ついて回るリスクを確認し、双方に対して備えることが必要だと思います。
高齢者の生活支援では、フィジカルな面で、七転八倒状態だと、「転びすぎでリスクが高すぎる」と考えた方がいいかもしれませんが、でも、「零転零倒」にはできないのは確かで、できれば、その回数をできるだけ抑えたいのです。
人間だもの。動くことで、人とも、環境とも、接点と変化ができます。
良いこともあれば、良くないこともあります。
精神的に、身体的に、動きがなければ、そこには、ふれあいや摩擦はありません。
人間だもの。良いとこ取りをしたいので、リスクは避けたい。ローリスク、ハイリターンがいい。
だから、そのためにも、本人のアセスメントと、生活環境のアセスメントは大事だな、と思います。
そして、リスクを説明し、デメリットやメリットもきちんと説明し、生きていく中で何を優先させるかを考えるお手伝いをしないとな、と思います。
さて、今日は土曜日。
ぼちぼちと、仕事をします。
みなさまも、良い一日を。