丸ごと忘れるということを考えてみる

認知症の中には記憶障害が顕著な症状になる場合があります。記憶があることが当たり前に生活してきた私たちには、「記憶がない」という状態は言葉としては理解できるものの、具体的にはなかなか理解できにくいものです。想像力を使って、考えてみました。

物忘れが始まること

アルツハイマー型認知症では記憶障害が現れます。
症状が進行すると、さっき喋っていたことを、本当にレコードが針飛びを起こして繰り返すように(最近の若い人はこのたとえが分からないのかも?)、短時間の間に繰り返し繰り返し同じ話をされることも珍しくありません。

記憶を時間間隔で分類する場合、いくつか表現の仕方はありますが、一つに「即時記憶」「近時記憶」「遠隔記憶」という分け方があります。
即時記憶は「今から数分前」程度の今まさにやっている作業や会話や行動の中で使われる記憶です。
近時記憶は、即時記憶より以前の、数分前から数日間にわたる記憶です。物事を約束したのを覚えているなど、スケジュール管理や買い物にいったときに必要な記憶です。「短期記憶」と呼ばれるのは、即時記憶から近時記憶のものです。
遠隔記憶は、近時記憶よりも以前のもので、10年前、20年前・・・若かったあの頃、幼かったあの頃の記憶がそうです。「長期記憶」と呼ばれたりもします。

ちなみに、即時記憶は、認知機能が健康な人でも、ぼんやり聞いていたり(どちらかというと、ぼんやりしていて聞いていない、ということかもしれませんが)、急いでいたりあわてていて上の空で眼鏡をどこかに置いてしまったり(そのときは、確かにそこに置くと意識していても)、「あれれ?なんだっけ?どこだっけ?」ということは起こります。

一般に、認知症になった場合の記憶障害の進行は、近い記憶から消えていき、昔のことはよく覚えている、ということを理解されている方は多いと思います。
実際には、近時記憶から抜け落ちるように記憶されないことが多く、即時記憶は保たれている場合は、初期の認知症の方ではよくあります。

なので、遠くに住む子どもが、親の安否を電話で10分程度話しただけで、大丈夫!と判断できるかというと、実はそうではありません。
「元気にしてる?」「ご飯食べてる?」「薬飲んでる?」には、大抵「大丈夫」と答えられることが多いんじゃないかと思います。
短時間の会話ではその場の会話は成立する場合は多いものです。
ただ、長電話すると『あれ?さっきと同じ話題が・・・あれ??また??』ということもあるかもしれません。

認知症が進行し、生活に支援が必要になっている方の子どもに、『実はかくかくしかじかですが・・・』という話をすると、『え?たまに電話していますが、ぜんぜん電話だとそんな風には思えませんよ』という話になることは実際にあります。
電話の様子を聞いてみると、『そんなに長くは話さないけれど、ご飯も食べてるし、元気にしてるって言ってたけどなぁ』と。

たまには、少し長い時間話し込むことは、喜びにもなるでしょうし、何か異変があれば気づけるチャンスにもなりますね。

徐々に進んでいくなかの自覚と他覚

記憶力の低下が進んでくると、周囲の人も気づき始め、受診を考え、受診し、ケアを整えることになるでしょう。
そのスピードや、受診をしたときやその後のケアや対応については、内容も方法も様々だと思います。

そこまでも、そこからも、おそらく少しずつ記憶力が低下し、「覚えていない」ことによる、本人の身の上に奇怪な出来事が起こったのではないかと思います。

家族が、記憶障害を起こし始めたおじいちゃんやおばあちゃんに対し、家族は驚き戸惑い、しっかりしろと叱ったり激励したり、説明の方法を変えてみたり、覚えていられるように教え込もうとしたり…。
そんな場面をたまに聞いたり目にしたり、あとからご家族から「実はあのときは」と聞いたりすることもあります。

認知症による記憶障害の場合は、劇的な改善は見込めず、徐々に症状は進んでいきます。
本人の努力や望みでは、なんともしようがないところがおおきいもの・・・。
ここで、家族や周囲の人が「しっかりしろ!」とより一層力をこめるようになると、お互いに辛くなるもの。

一体、「丸ごと忘れる」とは、どのような状況なのかを考えてみること、理解をしようとすることは大切です。

丸ごと忘れること

認知症の物忘れは、一般的な物忘れと比較して、「すべてを丸っときれいさっぱり、わすれる。ヒントを出しても思い出せない」と説明されることがあります。
一方、若い人にも見られる一般的な物忘れは、出来事の一部を忘れ、ヒントがあると思い出せるものと説明されます。

つまり、

「昨日の晩御飯を食べたこと自体を忘れているのが、認知症の物忘れ。食べたことは覚えているが、何を食べたかがとっさにでてこないのが、よくある物忘れ」

のような説明がなされます。

 

本当にそれで「その物忘れが認知症か否か」を見分けられるのかは疑問に思う部分もありますが、たしかに、通常に生活していて丸っきり出来事を覚えていない、ということはさほどありません。

泥酔して目覚めた翌朝、「どうやってかえってきたっけ?」と思うことなら、経験がある人もいらっしゃるかもしれませんが。
しかし、想像してみると、深酒をしたわけでもないのに、そのような状態がしょっちゅう起こるわけです。
しかも、飲酒なら「酔う前は、たしかあの店に行き、あの人とあんな話をしていて・・・」とそれ以前の記憶は思い出せ、そこから推測できます。
しかし、認知症が進んでくると、その前後のヒントになるものの記憶もあいまいになる場合も多く、ヒントになりません。

 

認知症の症状の一つとして、このように、記憶が保持されず、きれいに忘れ去られてしまうことは、実際起こります。
どんなに「しっかりして、ゆっくり考えて思い出して」と励ましても、叱っても、宥めても、思い出せません。

だって、覚えてないものは、思い出せないのですから。
記憶にないものは、ないのですから。

 

では、覚えていないことに対し焦った結果励ましたり、叱ったりすると、本人はどうでしょうか?

身に覚えのないこと、何のことかわからないことを「思い出せ!」と一生懸命言われても、何をどうしていいかわからないかもしれません。

だれだって、身に覚えのないことを「思い出せ!」と言われても、不満が残るでしょう。
身に覚えがないのに「あなたが、やったんでしょう!」「あなたは、もう食べたでしょう!」などと言われると、あなたなら、どうしますか?
『そうです、やりました』と認めますか?
それとも、『絶対に食べてない!』と言いますか?

もう一つの、想像ストーリーを通じて考える

もしあなたが、外国旅行にいったとして、二日目の朝、異国のホテルで目覚めたとしましょう。
あなたには、「昨日から海外に旅行に来ている」という記憶があります。
そして、「昨晩からホテルにとまっている」という記憶もあります。
目覚めると、日本とは一味違う朝の雰囲気に、楽しい一日を想像しわくわくするかもしれません。

 

しかし、認知症等で記憶力が低下し、昨日のことを覚えていない場合はどうでしょうか。
目覚めると、そこは、見慣れないベッド、まったく記憶にもない場所。
窓から外を見てみると、見渡す限り、見たこともないような景色。
日本語ではない文字がならび、日本語ではない言葉を話す人が大勢いて、周辺にいる人も日本人ではなさそうだし、見たことがある顔もない。

こんなことになったら。

パニックでしょう!
「え?なに?なんで???」
そりゃ、パニックでしょう。

SFの世界では、「目覚めたら知らないところにいて、奇妙な宇宙人に取り囲まれていた」みたいな設定があるかもしれません。
しかし、宇宙人に取り囲まれているのではないにしろ、記憶力が低下した人にとっては、これに近い驚きが起こっているのだと思います。

突然入院することになって、病室で目覚めた朝。
入所した施設でうたたねから、目覚めたとき。
夕方になって、ふと我に返った時・・・。

 

記憶とは、過去と今を繋ぐ大切な機能です。
記憶での繋がりがあるからこそ、目的をもった行動ができます。
それがなくなってしまうと、一つ一つが「え?なんで??」と思う状態になってしまい、自分自身で混乱してしまうでしょう。

そういう状態が起こっているんだと思います。
ただ、多くの場合は理性が働くし、その場の雰囲気もあるでしょうから、「なにこれ!?しらない!!なんなのよ!」とパニックになるよりも、場合によってはわかっているような雰囲気で対応をしてしまったり、対応できずにぼんやりしてしまうかもしれません。
時に、空気を読んだ行動「とりつくろい」と言われることもありますが、その気持ちは、自分がわかってしないことを隠そうとするものというのと同時に、自分がわかっていないことを明らかにすることで周囲に混乱を招くのを避けようとするものではないかと、私は思います。

 

いずれにしても、記憶力が低下して、物事を丸ごと忘れるようになると、本人としては大変な心の負担になると思うのです。

認知症になってもならなくても、快適に安心して暮らせる社会に

記憶力の低下は、認知症のなかでは「中核症状」とよばれ、脳の変性によるものです。
初期の認知症の状態では、メモをとったり、カレンダーに書いたり、周囲からの声掛けや支援で、記憶障害をカバーする方法はありますが、一般的には徐々に記憶力は低下します。

 

忘れてしまうこと、大切なもの、ひと、思い出をわすれてしまうことは、忘れられる側にとってもつらいものですが、やっぱり忘れる本人がいちばん切ないんだと思います。

道具の使い方、得意料理の作り方、お金の管理の仕方、好きだった趣味の活動も、徐々にできなくなることがふえるかもしれません。
周囲は、なんとか頑張らせて、努力させようとすることもあります。
たしかに、できなくなっていく様子を見るのはつらいですし、生活への影響を考えると、「なんとか、がんばって!」と思う気持ちもわかります。
でもやっぱり、本人がいちばん切ないのではないかとおもうのです。

 

目覚めた朝、自分のいる場所がまるで外国、まるで知らない星のような体験・・・。
それを想像すると、その不安の大きさに圧倒されそうになります。
そしてもし、そんな状況であるなら、何をどうしたらいいでしょうか?

私たちは、忘れても大丈夫な社会、をつくる必要があるのではないかと思います。
「備忘」の社会をつくりましょう、という言葉を聞いたこともあります。
歳をとると、自然と、記憶力は低下するもの。
さまざまな原因で、記憶力は低下する可能性があるもの。

『忘れても大丈夫、私が覚えてるから、ちゃんと誘うし、教えたげるからね!』
そんなことを言える社会だと、安心して歳をとれそうに思います。